ニューノーマルへ-コロナとその先-
【#15】津山市、哲学家・森内勇貴さん
ニューノーマルの意志とその本質
私は「ノーマル」という言葉が、嫌いだった。
特に、ニーチェの『力への意志』やフッサールの現象学を知るようになってからは、「ノーマル」という言葉への、どうしようもない違和感は、確信に変わっていった。
私が哲学を学び始めたのも、そして哲学に救われたことも、きっと「ノーマルとは一体何なのか」に関わっているんだと思う。“ノーマル”とは昨今言われているような「結果論的に、既にそこにあるもの」としての“正常”や“当たり前”を指すのではなく、「常に新たに生み出されてはその都度、消えていきつつ、あるいは残っていく、そういった生きた“何か”」としてある。私はきっとニューノーマルについても、コロナについても、ここで直接語ることはできないかもしれない。ただ、私は「ノーマル」とは、一体何なのか、それが「一体どのように生み出されていくのか」について、真剣に考える方法なら、ほんの少しだけここで述べてみることができるかもしれない。
「ノーマル」とは、一体何か。
ノーマルとは普通「標準の、規定の、正規の、正常の、常態の、一般並みの、平均の、正常な発達をしている」といった意味で使われている。要するに、「当たり前」ということだ。例えば、ノーマルな考え方、ノーマルな性向、といった表現を、“当たり前な”考え方、“当たり前な”性向と言い直しても大して意味が変わらない。そうした言葉遣いの前提には、“当たり前”や“ノーマル”には、何か“善いこと”であるような含みがある。
ところで、何か善いとは一体どういうことだろうか。
ニーチェは『善悪の彼岸』や『力への意志』の中で、何かの善/悪を分けるのは、その時その瞬間の想い(=“意志”)だと述べている。中国の古代思想家である老子も「善の善たるをしる、それ不善なるのみ((世の中の人々は)何が善いことかを当たり前に知っている気でいるが、それこそが善くないことである)」と述べているが、それも同じことだ。つまり、善悪は本来、表裏一体であり、それをどちらかに分節するのはその人の考え方次第だということだ。例えば、私の祖母は、コーヒーが好きで、飲むと元気になると言って、毎朝朝食と一緒に頂くのが日課だったが、夕方をすぎると、それは祖母にとって “絶対に飲んではいけない、危険な”飲み物になる(眠れなくなるから、らしい)。同じコーヒーが、1日の時間によって、薬のように(善いものとして)飲まれたり、毒のような扱い(悪いもの)になったりすることは、誰にでも起こる。
何かを善いと判断するのは、それが自分にとって役に立つからだが、そうした役にたつことを、ここでは「有用性」あるいは「価値」と呼ぶ。
では、どうして「何か役に立つこと」が、“当たり前”や“ノーマル”と呼ばれるようになるのだろうか。
誰かにとって、「何か役に立つ」という判断は、それが役に立ち続けている限り、非常に便利である使い心地のいい判断であるため、そうした結果が期待通り起こり続けるならば、それはその人にとっての「善い判断」になる。そうした判断は、その人の「習慣」になり、その習慣の有効性が、周囲のメンバーに共有されれば、そのコミュニティの中での「慣習」や「法」になる。そうしていくうちにいつの間にか、それが「便利だから採用しているに過ぎない判断」であるということを忘れ、無意識のうちに「それこそが当たり前だ」という「信念」に変わっていく(現代言語学の父と呼ばれるソシュールを分析した丸山圭三郎はそれを“隠蔽性”:恣意的に選ばれたものの恣意性を忘れ無意識に採用してしまうこと、と呼んだ。)
誰かにとっての「当たり前」とは、その人にとってそれまで有用であり、彼または彼女の経験の中で確実に通用し成果を出してきた、非常に価値のある便利な“信念”のことに他ならない。
その信念が成り立つ論拠は、「実際に役に立つかどうか」である。かつて当たり前だったものも、時と共に役にたたなくなれば(有用性をなくせば)、その価値は低下し、いずれ“当たり前だ”と信じることができなくなる。
何かを「当たり前」だと考えてしまうことの恐ろしさは、養老孟司の『バカの壁』に詳しい。その著書の中で特に印象に残っているエピソードは、中学生の男女に出産の一部始終が映ったビデオを見せたところ、視聴後のアンケートでは、男子生徒と女子生徒とのあいだに著しい違いがあった、という部分だ。
男子生徒のアンケートでは、出産シーンを「もう知っている」「当たり前の知識だった」といった内容が感想の大半だったが、女子生徒のアンケートでは、「医者や看護師さんがこんなふうに動いていて驚いた」「知らないことばかりで新鮮だった」と、男子とは正反対の感想を書いていた。同じ年齢でほぼ同じ授業を受けている生徒たちなので、知識レベルでは彼らに大きな違いはないはずだが、同じものをみた感想としては正反対の感想だった点が印象的だった。
男子生徒は、出産の一部始終が映ったビデオをどこか他人事として眺め、自分とは関係のないどこか遠くの出来事として見ていたため、「既に知っていることばかり」しか目に入らなかった。他方、女子生徒の場合は、将来自分が経験することとして細部まで何事も見逃すまいと必死で見ていたので、「新しいことばかり」が目に入ってきたのではないかと分析する。
この男子生徒たちに生じた事態を養老氏は「バカの壁」と呼ぶ。それは何かを「当たり前」だと決めつけてしまうことで、目の前で起こっている現実の豊かさが損なわれる、心理的なバイアスのことを指す。つまり、何かを「当たり前」だと呼ぶ人の多くは、もしかすると、「バカの壁」越しに世界を眺めている人ではないか、と養老氏は述べているように私には思われる。
要するに、当たり前かどうか(=すなわち、役に立つかどうか)は、その人次第なのだ。「ばかとハサミは使い用」ということわざは、そうした事態を指している。役に立つかどうかは、その人の意志と力量次第である。
そう考えると、「通常」や「正常」という言葉も、いただけない。
「通常」とは、結局「ある人にとってそれまで有用であったという経験に裏打ちされ、かつ多くの人に受け入れられていると信じている“思い込み”」に他ならないし、「正常な」とは「ある人にとって期待通りの結果を導く状態」であるに過ぎない。異常事態とか、狂気とかは、誰かにとって、役にたつか/立たないか、期待通りか否か、を分ける枠組みや範疇の中にいるかどうかということに過ぎない。例えば、ある人にとっての期待を大きく損なう出来事が起き、それを役に立てることができないと感じた時、それは“異常事態”と呼ばれる。
「ノーマル」が、どのように生み出されていくのか。
以上のことをまとめると、「ノーマル」とは、「役にたつ信念(あるいは枠組み)」ということである。言い換えると、ある人にとって「一定範囲内の結果が期待できる便利な行動様式や、規範、または、その基準」をさす概念である。そして、我々はノーマルが便利で役立つが故に、その状態を「構築し、かつ守ろう・維持しよう」と欲する。ニーチェはそれを「力への意志」と呼び、フッサールは『幾何学の起源』の中で、「志向性」と呼び、そうした事態を、ハイデガーは『技術は何か』の中で、“存在の定立”と呼ぶ。定立とは、存在を維持し続けると言う意味だが、「ノーマルな状態を守ろうとする」ため、そうした状態から外れるものは“排除”し、罰を与え“矯正”していかなければならない。
その結果、あらゆる規制や儀礼や仕組みが作られ、個の振る舞いは、ある有用性に従い、画一化されていく。
(おそらく、これが、私が「ノーマル」という言葉が嫌いだった要因だと思う。かつて役に立っている、あるいはその人にとって役に立っている行動様式を、他者に強制し、押し付けてくるように見えたからだ。)
「ノーマル」の起源とは
ところで、ノーマルはどこから生まれるのだろうか。
私の考えでは、ノーマルの起源は、個々人の抱える「不可能性」である。できないこと、満たされないことがあるからこそ、私たちは、その状態の“問題点”に気づき、それを乗り越えようと“事後的に”志向することができる。つまり、うまくいかない出来事があると、それをきっかけに人は考え始め、今の状態をほんの少し変えようと動き始める。そして、現状を今利用できる力で、ほんの少しでも変える道筋が掴めたとき、それは主体にとって“真理性”(これこそがほんとうのやり方だという感覚)を帯びて、立ち上がってくる。ヘーゲルは『精神現象学』の中で、“真理”をそのようなものとして描き、彼の『大論理学』の革新的な仕事は、そうした個々人に一瞬生じる“真(これがほんとうのそれだ!)”の確信を、“真理”として扱い、そうした真理を常に掴み続けるための具体的な方法を「論理学」として提示したところにあると私は思う。
つまり、私たち一人ひとりが抱える不全感、あるいは満たされない気持ちやフラストレーションは、その人にとっての“ほんとう”を掴む第一歩になりうる。私たちは、何かがうまくいかなくなった時、どうしようもなく悩んでしまう。それは、「自分がそうありたい存在」として自分を定立することができなかったからだが、ヘーゲルの“真理”に向かう思考法を利用すると、それをきっかけに改めて「自分が自分らしくある、具体的方法」を考え直すことができる。“真理”とは、普通言われているように万人にとっての正しさを示すものではなく、「一人ひとりがその人らしくあるための具体的な何かを見出した一瞬に生じる“これだ!(This is it!)”感」のことである(仕事終わりに飲む、キンキンに冷えたビールの、あの、その日起こった全てを祝福してくれるような“これよ!!”感も、そうした“真理”の一つだと私は思う)。そして、プラトンによると、“真善美”は同時に生じてくる感覚である。つまり、自分にとって“これだ!(=真)”と思ったものは、同時に、“自分にとって善いもの”として生じているし、“美しいもの”としても生じている。
そして、現在は、“ニューノーマル”が生まれつつある時代である。
これは、「ノーマルを守ろうとする力」と「ノーマルから外れて新しい役にたつことを見つけ、それを維持しようとする力」とが拮抗する時期である。かつてのノーマルを守ろうとする側は、ニューノーマルの種を異物とみなし、排除し、矯正しようとするが、ニューノーマルを作り出そうとする側は、現状のノーマルの含む問題と向き合い、このノーマルが本当に役に立っているのかどうかを吟味し、他の方法はないかを模索し、試行錯誤しながら、別の役立つ何かを作り出す環境を構築しようとしていく。
寄稿文の中で、建築家の和田氏が指摘するように、オンラインで「場」や「地域」の定義が変わったことで、「都市」空間の目標や存在意義が変わり、地域の人口動態や世界的な環境問題の変化で新たな「地域」のあり方が模索されている。
また、医師の松坂氏が指摘するように、どれほど考え方や定義が変わっても、私という存在は“この身体”で生きるしかない(“痛み”の受容器官)、という現実に変わることはなく、それゆえに共に苦しみを分かち合う共感の重要性を訴えられている。
アートギャラリーを運営する飯綱氏は、こうした世界と地域についての考え方が根こそぎ見直される重要な変化の時に際して、アートの責任を述べられている。
さて、コロナで何かが変わったのだろうか。
確かにこれまでの考え方を大きく変えたし、行動様式も物流も空間概念も大きく変化したように思えるが、これはもしかすると表面的な変化かもしれない。
実は、「バカの壁」を乗り越えてみれば、コロナが来ても来なくても、現実は常に豊かで新鮮で新しく、驚きに満ちた、新たな出来事と変化であふれている。要するに、誰かの“当たり前”は、常に現実の変化にさらされているし、新たな何かを生み出すきっかけはいつでも無数にそこら中にあふれている。さらにいうなら、何万回聞いた曲でも、ふとした拍子にまた新鮮な驚きとともに新しい響きを持って立ち上がってくることだってある(僕にとっては、例えば小学生の頃から何万回も繰り返し聴きつづけているSeptemberは、今聞いてもやはり新鮮な(”ほんとうの”)響きを帯びて僕に届いてくる)。
つまり、“ニューノーマル”とは、誰かに与えられる新たな規範、のことを指すのではなく、「今いる場所で、“新たな役に立つ”を生み出そうとする一人ひとりの意志、その人にとって切実な、何か新しい“ほんとう”(その人のその人らしさ)を作り出そうとする個々人の意志そのもの」、をいうのではないだろうか。
私たちは待つことを学ばなければならない。
新たな何かが役に立ち、それが期待した一定範囲内の結果を導くようになるには、時間がかかる。種が実をつけるには、しっかりとした土壌とそれを育む条件のもとで、その結果をじっくりと待つ、忍耐力が必要である。切羽詰まった状況でとにかく早く結果が欲しい状況であっても、そうした事態は原則的に変わらない。これまでの当たり前に縛られず、その時の自分にできる忍耐の範囲内で、暫定的かもしれない価値ある何かを、その都度見出しつづけようとする意志、そうした一人ひとりの意志とその強度が、今私たちに問われている。そして、それを実のあるものにするためには、私たちは待つことを学ばなければならない。
種が実をつけるまで育むための土壌とは、“今私の周囲にある、ここ”である。それは、“この美作”という地域だし、この会社でも、家族でも、この世界でもいいかもしれない。自分に与えられた“この世界”で、「自分の自分らしさ」をその都度発揮し続けること、そしてそれを実際に作り出すこと、言い換えると、自分にとっての“これだ”感(=ほんとう)を作ろうとする意志、それはプラトンのいうように“美”とともにやってくるが、それこそが、“美-作”未来プロジェクトの根っこにある意志であり、そうした意志を持つ人々によって生成されつつある“今ここ”こそが、“美作”という地域であると、私は考える。
哲学家 森内勇貴